9m越えの決死作業!難攻不落、天空の要塞を除去せよ!―地上10メートルの葛藤と、古巣に眠る小さな命の守護者
第一章:能勢の春、不穏な「二つの影」
大阪府の最北端、豊能郡能勢町。
そこは「大阪の軽井沢」とも称されるほど緑豊かで、都会の喧騒を離れた移住者たちが新たな生活を紡ぐ、静謐な理想郷だ。近年では若者世帯の流入も増え、洗練されたカフェや古民家再生プロジェクトが息づくこの町は、同時に古くからの別荘地としての顔も持っている。
その能勢の山間に建つ一軒の別荘を巡り、一本の電話が入った。
依頼主は、日頃から厚い信頼を寄せてくださる不動産管理会社の営業担当者。
「中山さん、能勢の別荘で困ったことになりまして……。外壁塗装の工事に入ろうとした足場職人さんが、軒下に巨大なハチの巣を二つも見つけて、怖くて近寄れないと作業を止めてしまったんです。とにかく一度、見ていただけませんか?」
4月。ハチの活動としては、まだ女王バチが孤独に巣作りを始めたばかりの時期だ。そんな時期に「巨大な巣」が二つもあるというのは、生態学的に見て少し早すぎる。
「……古巣(ふるす)かもしれないな」
私は直感した。去年の、あるいはそれ以前の住人が去ったあとの「空き家」だ。
私は現場へ向かう前、現代の武器であるグーグルマップを開いた。ストリートビューでその物件を確認すると、驚いたことに、過去に撮影された画像の中に、くっきりと二つの巨大な球体が映り込んでいた。
数年前からそこに鎮座し、能勢の厳しい冬を幾度も越えてきたであろう「天空の牙城」。
正体が古巣であれば、今日の仕事は「駆除」ではなく「除去」になる。危険な毒針との戦いがないと分かれば、心は幾分か軽くなる。
「サッと片付けて、帰りに能勢の美味しいものでも食べて帰ろうか」
そんな気楽な独り言をこぼしながら、私は愛車に三連はしごを積み込み、山道を北へと走らせた。
第二章:牙を剥く「アルペン型」の難攻不落
現場に到着した瞬間、先ほどまでの楽観的な思考は、能勢の冷たい山風とともに霧散した。
私の目の前にそびえ立っていたのは、別荘というよりは「要塞」だった。
まず、その高さだ。
別荘は斜面にせり出すようにして建っており、建物の基礎から下は急な下り斜面になっている。軒下にある巣までの距離を測ると、私が持ち込んだ9メートル超の三連はしごでさえ、到底届かない位置にある。目測で優に10メートル、いや、それ以上か。
さらに、屋根の形状が追い打ちをかける。
急勾配の「とんがり帽子」のような屋根。私はこれを「アルペン型」と呼んでいるが、この形状は屋根の上に立って作業することを一切拒絶する。外壁にははしごを固定するための突起物も、ベルトを回せる柱もない。
そこに、今日に限って吹き荒れる強風。
見上げれば、二つの巨大な巣が「どうだ、ここまで来られるか?」と、地上にいる私をあざ笑っているように見えた。
「これは……無理だ」
正直な言葉が口をついて出た。
はしごを最大まで伸ばせば、風に煽られてしなり、わずかなバランスの崩れが命取りになる。しかも足場は不安定な斜面だ。作業員が救急車で運ばれたあの現場や、過酷な屋根裏の戦いも経験してきた私だが、これほどまでに物理的な「絶望感」を突きつけられた現場は稀だった。
「中山さん、これ、どうにかなりませんか……?」
背後で、困り果てた表情の管理会社の担当者と、遠巻きに見守る職人たちの視線が刺さる。
「危険すぎる。ここで退くのが、プロの正しい判断ではないか?」
心の天秤が、激しく揺れ動いた。
第三章:プロの矜持 ―― 逃げ出したい自分との闘い


「すみません、この高さと条件では私の手に負えません。他の特殊高所作業の業者を当たってください」
そう言って頭を下げ、機材を片付けて撤収するシナリオが、頭の中で何度も再生された。それは決して「間違い」ではない。安全管理を最優先するのがプロの第一条件だからだ。
しかし、その答えを出そうとした瞬間、胃のあたりが重く沈むような感覚に襲われた。
戦わずして引き返す。それは、自分自身に対して「敗北」を認めることに他ならなかった。これまで積み上げてきた「家の110番」としての誇り、どんな難題にも応えてきた自負。ここで背を向ければ、それは技術的な限界ではなく、精神的な限界を認めてしまうことになる。
「ベストを尽くさずに負けるのは、プロとして一番惨めな死に方だ」
私は深く息を吸い込み、冷たい風を肺に溜めた。
もし、あらゆる手段を尽くして、それでも届かなかったのなら、その時は堂々と諦めよう。しかし、まだ何も始めていない。
「……よし、やるだけやってみます」
私の言葉に、現場の空気がわずかに変わった。
私は、三連はしごを解いた。伸ばせば伸ばすほど、はしごは風に鳴り、頼りなく揺れる。斜面のわずかな平坦地を見極め、はしごを壁に立てかける。角度はほぼ垂直。少しでも重心を後ろにやれば、そのまま背後へとダイブする「垂直の壁」だ。
気休めかもしれないが、玄関近くの細い柱に安全ベルトを回し、はしごの足を固定した。
一段、また一段。
防護服の中で心臓の鼓動が早まる。地上から離れるにつれ、風の威力は増し、はしごが壁を叩く音が不気味に響く。
ようやく先端まで辿り着いたが、予想通り、巣まではまだ距離があった。背伸びをしても、指先さえ届かない。
第四章:竹竿とデッキブラシの奇策



はしごの最上段で、私は考えた。
直接手が届かないのであれば、私の「リーチ」を伸ばすしかない。
私は一度地上に降り、車内にある道具を組み合わせた。長年使い込んできた頑丈な竹竿。その先端に、毛足の硬いデッキブラシを、粘着テープでこれでもかと頑強に固定した。
「中山流、天空の槍だ」
再び、垂直のはしごを登る。
揺れるはしごの上、片手で支柱を掴み、もう片方の手で長さ数メートルに及ぶ「槍」を操る。重心が少しでも崩れれば、10メートルの高さから地面へと真っ逆さまだ。
風の合間を縫い、私はデッキブラシの先端を、一つ目の要塞へと突き立てた。
「……落ちろ!」
渾身の力を込めて押し出す。
数年間にわたり、能勢の風雪を凌いできた古巣は、驚くほど頑強に軒下へ固着していた。しかし、デッキブラシの硬い毛先がその隙間に食い込み、ついに結合部が悲鳴を上げた。
ドサッ、という鈍い音とともに、巨大な球体が宙を舞い、地面へと叩きつけられた。
続けて、二つ目。
同様に、揺れる足場に耐えながら、魂を込めた一撃を繰り出す。
二つ目の要塞もまた、重力に従って地面へと沈んでいった。
「よし……!」
はしごの上で、私は小さく拳を握った。
巣の跡には、まだハチが分泌した接着成分が残っている。私は限界まで身体を反らし、デッキブラシでその跡をごしごしと擦り落とした。本来なら完璧に跡形を消したいところだが、この状況での深追いは、それこそ命取りになる。
「あとは、塗装前の高圧洗浄に任せよう」
私は自分の限界点を見極め、慎重に、一段ずつ「地上」という名の安息の地へと降りていった。
第五章:古巣に眠る「小さな同居人」たち



無事に着地し、防護服を脱ぐと、そこには心地よい疲労感と、冷や汗が乾いていく感覚があった。
地面には、無残に砕け散ったスズメバチの巨大な巣の残骸が転がっている。
私は後片付けのために、その残骸を手に取った。その時、巣の隙間から何かが動く気配を感じた。
「……ん?」
慎重に中を覗くと、そこから這い出してきたのは、一匹のヤモリと、二匹のアシナガバチだった。
4月の能勢はまだ寒い。
古巣は、彼らにとっての「断熱材入りの高級ホテル」だったのだ。
スズメバチが去ったあとの城を、彼らは冬眠の宿として借りていたのだろう。不意に住処を壊され、地上へと落とされた彼らは、まるで酔っ払いのような千鳥足で、フラフラと混乱した様子で歩いていた。
すぐに寒さに当たったせいか、彼らは再び眠りにつくように、動きを止めてしまった。
「悪かったな。ここにいては工事の邪魔になる。もっと安全な寝床へ連れて行ってやるからな」
私は彼らを優しく掌で包み込んだ。
先ほどまで、あんなに憎たらしく、戦いの対象として見ていた「天空の要塞」が、実は小さな命たちを育む「揺りかご」であったことに、私の心は少しだけ和らいだ。
私は別荘の裏手にある、さらに深い山の中へと足を踏み入れた。
そこには、ふかふかに積もったクヌギやナラの落ち葉があった。私はその中に彼らをそっと横たえ、さらに上から布団のように落ち葉を被せてやった。
「ここで、もう一度ゆっくり眠れ。無事に冬眠から目覚めたら、今度は人に見つからないところで、元気に生きるんだぞ」
そうつぶやくと、落ち葉の下でアシナガバチたちが、わずかに触覚を動かした気がした。
第六章:プロとしての「勝ち」の定義
機材をすべて片付け、天空の牙城が消えた軒下をもう一度見上げた。
そこには、本来の、能勢の清々しい空が広がっていた。
今回の現場は、これまでのハチ駆除とは全く質の違う闘いだった。
毒針との戦いではなく、重力、風、地形、そして「己の恐怖心」との闘い。
もし私が、最初の直感に従って引き返していたら、私は今日食べる昼ごはんを「敗北の味」として記憶していただろう。
「やるだけやって、答えを出す」
その泥臭い執念こそが、技術を超えた「プロの仕事」の根幹であると、改めて能勢の山々に教えられた気がした。
工事を待っていた足場職人さんたちが、笑顔で私に駆け寄ってきた。
「中山さん、本当にありがとう!あんな高いところ、よくやってくれたよ」
「助かりました、これで安心して仕事ができます!」
その感謝の言葉こそが、私の傷ついた誇りを癒し、次なる現場へのエネルギーへと変わっていく。
帰り道、私は山を降りながら、どこかで昼ごはんを食べようと車を走らせた。
能勢の豊かな恵みを味わいながら、私はふと、落ち葉の下に隠した彼らのことを思い出した。
生命の循環の中で、私の仕事は時にそのサイクルを断ち切ることもある。しかし、可能な限り、そのサイクルを「守る方向」へ繋ぎ合わせたい。
バックミラーに映る能勢の山は、夕陽を浴びて黄金色に輝いていた。
私はその輝きに、今日という日の「自分への合格点」を重ね合わせ、穏やかな家路へとついた。
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